Dream Factory 2020 闇春
できないことを嘆かず
できることを1日1日精一杯生きよう!
タイトルを「闇春」とした。梅が開き、桜のつぼみも膨らむ三月、とんでもない事態になっている。この事象はきっと世界的な混乱として未来の歴史の教科書に載るだろう。政治、経済、文化、教育、あらゆる人間の営みがストップしている。
レンズを絞っていけば、県内学校の臨時休校は3週目に入る。君たちとやっとの思いで獲得した全国選抜への切符も幻のものとなった。当然あったはずの未来が消えていく。
昨日、世界保健機構はパンデミックを宣言した。この混乱がいつ収束するのかも見えない。世界も、その一部である僕らも、出口の見えないトンネルから抜け出ることができない。
そんな中でも季節は巡り、越後の野原はヒメオドリコソウ、オオイヌノフグリ、オランダシシガシラ、早春の野花たちが一斉に美しく春を告げている。
こんな複雑な浅春の1日を君たちはどう生きた?
センバツ高校野球も中止になったが、その報道の中で、ある出場予定校の監督が憮然として「子どもたちの夢を大人が奪って・・」という発言をしていた。驚いた。それは間違っている。間違っているというより、そんな短絡的で子どもじみた見解を監督が口にすべきではない。その学校の選手たちは単純な世界観でしか状況をとらえられなくなる。そのような見方は、これからの人生でたくさんの夢や挫折を経験していく若者にとっては有害でしかない。
だから、メッセージを送ろうと思う。日本中、世界中、いろんな夢がある。夢が絶たれたのは日本の高校野球選手ばかりではない。
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伝えたいことは、思いがけず不幸な目にあったりコントロールできない混乱に見舞われたときに、僕らは何をすべきで、何をすべきでないのかということに尽きる。
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センバツが中止になった。研修大会も中止。合宿も不可。部活再開のメドも立たない。市内の体育施設はすべて利用できない。学校も休校が続く。やれないことだらけだ、と思ったらその通りになる。悲しんで嘆いているから、嘆くような世界しか見えてこないのだ。悲劇として状況を見れば悲劇的世界が広がっていく、君たちの脳や心にだ。これはソフトテニスの試合において、相手がシード選手でゲームカウント0-3という絶望的状況と一緒なのだよ。絶望的と捉えれば「絶望的」にしか見えない。だが、今何が起こっていて、この状況で自分がやれることは何で、今まで試みていない選択肢がいくつ残っているか、つまり「やれること」「やらずに残っていること」に焦点を合わせれば、決して絶望などしている暇はない。やれることを見つけてそれをやる、それは「希望」なのだよ。そして、その「希望」は、未来を信じているからこそ生まれる「力」だともいえる。
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君たちは成長の途中にいる。テニスの技術だけではなく、精神的にも、人間的にも、まだまだ成長しなければならない。いやMUSTの考えはよくないね。成長することで必ず世界が広がる。協働して成し遂げられることや領域が大きくなる。大会がなくても、学校に集まれなくても、このパンデミックの中でも成長すべきだし、むしろ成長するチャンスだ。
先日、フランクルの『夜と霧』を久しぶりに読み直した。20代の学生の時、アパート近くの古本屋で買ったものだ。まだその時の値札が挟まっていた。30年以上たっている。
フランクルはあのアウシュビッツ収容所から奇跡的に生還したユダヤ人の医師です。『夜と霧』は、アウシュビッツ=ユダヤ人を消滅させようとした大量殺りくの生々しい現場=凍てつく冬でも乏しい食糧とぼろきれのような服しか与えられずに過酷な土木工事に1日中駆り出されて、人間が人間性を失っていく「地獄」のただ中で、人間の心はどうなっていったのか、そしてこのような絶望的状況の中でも、人としての尊厳を失わずに生きるとはどういうことなのかを熱く語りかけている世界的名著だ。えっ、まさかアウシュビッツを知らない…。ウイキペディアで今すぐ検索!
この本は悲劇を語った本ではない。悲劇的状況の中での人間の希望を語った書だ。いつか、ぜひ読んでみてください。
フランクルは言う。「どんな絶望的な状況でも、我々は生きる意味がある。将来君を待つ誰かだったり、君が為すべき仕事だったり、そこに『今』はつながっている。期待が持てない状況であっても、決してあきらめず、今を生きぬくことに誇りをもってほしい」
希望が持てないと思われる環境で、多くの者はパニックになり、プライドを捨て、悪魔的に自己中心的になったり、人を貶めたりする。そんな中でも、1日に一片しか支給されない固いパンを瀕死の仲間に分けてやったり、絶望して自死に向かう仲間に希望を灯したり、蔓延する伝染病で死を覚悟しながらも尊厳を捨てなかったりする多くの例をフランクルは書き記す。そして言う。
「精神的人間的に崩壊していった人間のみが、収容所の(非人間的な)世界の影響に陥ってしまう」「内面的な拠り所を持たなくなった人間のみが崩壊せしめられた」
身の周りを見てほしい。マスクや消毒液の買い占め。デマに踊らされてトイレットペーパーを買いあさる人たち。各国で起こっているので、文化や宗教は関係ないようだ。くだらないので読みはしないが、「中国の陰謀説」なるものもネットには載っているし、アジアから広がったことで当初アジア人に対する偏見や差別が生じた。過去の歴史を紐解けば、中世のペスト大流行の際にはユダヤ人陰謀説が広がってユダヤ人が虐殺されたり、日本でも関東大震災の時は「朝鮮人が混乱に乗じて犯罪や暴動を企てている」というデマが流れ、多くの朝鮮人が町中の自警団等によって追い詰められ殺された。
かくも人間の心は弱い。フランクルの上の言葉と混乱した人間たちのとった(とっている)行動とを重ねてほしい。
我が家は一つのことを決めた。トイレットペーパー・消毒液は、店頭に商品が並ぶまで買わないし探さない。そう決めると、使う量はいつもの半分以下で済むし、手はよく洗えば消毒液やアルコールも必要ない。小さなことだが、落ち着いてやれることをやる。パニクって混乱を拡大させない。それからネットは必要な情報を集めるだけにすること。
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君たちはこの危機的な状況をどう生きている?
こういうときは、普段ならできないことを積み重ねて、必ず訪れる「光」を待つべきだ。
家の仕事はもちろんやっているね。掃除、洗濯、食器洗い、春になるから窓ふきもいいね。小さなことでも心を込めてやることだ。一つひとつ、丁寧に少しでもよくなるように。こういう時だから庭に花を植えようか。種を植えて初夏を想うのも素敵だ。小さな工夫を見つけたり、こういうことが楽しくなってきたら、その仕事は君に寄り添ってくる。つまり君を求めている。つまり君に価値が生まれる。仕事ってそういうものだよ。家の小さな仕事もタフな職業上のプロジェクトも変わりはしない。
読書。リストを渡して休校中最低3冊と言ったけど、休校が延長になったから5冊以上行けるでしょ。これもMUSTでやらないこと。実際、50頁読んでも、全く心に入ってこなかったり、拒否感が強かったりしたら、きっぱり読むのやめて、別な本に移った方がいい。君にとって、その本は旬ではないのだ。ただ、とっておいてごらん。あとで旬になったりすることもあるから。描かれている世界と波長が合ってきたなら、作品の中で心が込められている箇所がいくつかあるので、そこを流さないで、知的好奇心や感情をMAXにして作品の世界と深く交流しよう。映画やテレビと違って、味わう時間をコントロールできるのが読書の最大の利点だ。僕は『夜と霧』を再読しながら、何度そういう箇所で本を閉じ、目を閉じ、思いを過去へ、ポーランドへ、今へ、自分へ重ねたことか。
大学受験する人は1年間の復習をやる絶好のチャンスだ。1日何時間と決めて取り組むこと。わからないところは誰かにきく。わかるまでやる。テニスと同じだ。
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さて、テニス。まず何がやれるのか。ここは科学的な事実を大切にしよう。
コロナウイルスの感染は、感染者のくしゃみや近距離での会話で空中に飛ばされる飛沫を吸い込むことによる「飛沫感染」と、感染者がウイルスの付着した手で触ったところに接触することから感染する「接触感染」この二つだ。空気中にウイルスが漂っていて、それを吸い込むことで感染する「空気感染」は起こらない。だからあの関東の満員電車でも感染はないのだ。とすれば、外を走ったり、空き地等でボールを打ったり、壁を見つけてサーブ練習をしたり、公園でフィジカルトレーニングをしたりするのは何の問題もない。自分を鍛えるとき、「何のメニューをやるのか」ではなく、「何の力をつけようとしているのか」を明確にすることだ。持久力を落としたくないのか。体幹を強くしたいのか。フットワークの敏捷性を高めたいのか。関節の可動域を広げたいのか。下肢と上肢の連動を自在にしたいのか。そう考えるだけで、全くトレーニングは違うものになる。フィジカルで一人で自分を追い込むのは難しいが、誰も見ていないからこそ、鍛えられることもある。
是非この機会に自分で育ててほしい「目」があるんだ。
トレーニングで自分を高めるためには、あと一歩、あと3回、あと1秒と OVER THE TOPを実現しなければならない。つまり追い込まなければならない。これは苦しい作業で、強い意志を持たないと続けられない。その時に背中を押してくれる力が、仲間であり、先輩後輩であり、コーチである。それにタームを当てはめれば、「環境」と「他者視線」ということになろう。部活動というのは、それが当たり前に存在する。知らず知らず、君たちはその力に押されて自分を鍛えている。ところが、今、その力がない。「環境」の力もなく「他者視線」の力にも頼れず、では何の力で、あえて重い荷物を持つのか、あえて急な坂道を選択するのか、誰も見ていない、楽な道を選んだ方がきつくない。そこで試されるのが「自分の中の目」だ。フランクルはそれを「態度価値」と言う。
「価値」ととらえるのはとても興味深い。飢餓状態の中で持っている固パン一片は「大いなる価値」だ。タバコ1本は1日1杯しか配給されないスープ1杯と交換できたという。「物自体の価値」。もちろん、財産、お金、家、教科書、食糧…すべて「物としての価値」。次に「体験という価値」があるという。物ではないが、実際に新しいフィールドでの経験は、どんなことであれ「価値」がある。その経験を自分を広げたり社会や他者に還元できたりするからだ。
そして最後にくるのが「態度価値」。これは「物」でもなく、「体験」でもなく、つまり何かと交換したり、数値化できたり、他者へ還元できたりするものじゃない。この「態度」は他者に見せるものではない。死を悟った患者が死の間際で同室の人への配慮を医師に願う。絶望的な境遇にあっても自己保身に走ってナチに取り入ることはしない。困難な状況にある時、自分だけいい思いをすることを慎む。直接的には何の利益も自分にはもたらさないが、そういう態度をとることはそれだけで「価値」だというのだ。決して人に見せるための行動ではないが、そのような態度で生きている姿は、逆の方向に流されようとしている多くの他者(普通であれば良き市民であるような人たち)に勇気と希望と与え、我々は何のために命を授かったのか、我々は今何をすべきなのか、人として本当に大切なことは何なのか、そういう実存的問いを投げかける。小さなことかもしれないけれど、人としての尊厳を保とうとする意志、選択、行動を「態度価値」とする。ただ「物の価値」と「態度価値」はしばしば対立する。トイレットペーパー、マスク騒動がその例だ。その時、問われるのは「自分の心の目」なのだ。誰も見ていない中で、どのような態度を選択し、信念とし、行動するのか。だから、「環境」も「他者視線」もない中で、どのようなトレーニングをどこでどれくらいの強度でやるのか。今、「自分の心の目」を鍛えていくことが大事なんだと思う。実際、テニスでも、追い詰められた場面で「何をすべきで、何をすべきでないのか」、それは自分で判断し自分で実行していくしかない。最終的には「孤独」で静謐な世界がそこにはある。そこで頼れるのは、今まで鍛えてきた「自分の内面の目」なのだ。別な言葉で言えば「プライド」だ。日々積み上げてきた「態度価値」、その集積こそが「プライド」になる。
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さあ、今日も決めたことをやりきろう。朝走っている者もいるが、たとえば、休校が続くから起きる時間が少しずつ遅くなりスタートの時間も遅くなっていく。実行はしているだろうが、これでは「自分の目」は閉じたままであり、すなわちプライドに繋がらないだろう。そういうことが1日の中で無数にあるのだ。
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明日も休校が続く。
世界は混乱が続く。
君たちはどう生きる。
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コロナの混乱があったから、自分はその時期に強くなったことがある。
君たちにはそう言ってほしい。そして、そうなるべきだ。
センバツで戦う夢は失われたが、君たちの夢は決して失われない。